昭和41年12月21日 朝の御理解



 教祖の神様というお方は、実意丁寧をもって、言うならばそこのところを、素直に素直に、神様のお心に従順に、触れていかれたお方だと私は思うのですが、その生きることに、素直でおありになったということと同時に、死ぬるということにも、素直でおありになったということでございますね。
いよいよ神上がりますときに、いよいよ、御国替えのときに、最後に残されておられるお言葉は、あー心安しという、お言葉です。ほんとに、一生のことを成し終えられて、そして、神様の御元に、おいでられなったと・・。ほんとに、あー心やすしとこう、言うて、亡くなっていけれるということは、私は、もう大変なことだとこう思うんですね。後に未練が残る、あれもしなかった、これもまだ、というのではなくてですね、死にたくない、死にたくないというのではなくです、ほんとに、あー心安しという、一言を残して、お国替えになられれるということは、これはもう大変なこと。そこに私やはり、実意丁寧神信心が、そのまま、素直な、生きられ方です。天地の親神様のお心に、従順に、従うておいでられたということがです、もうとにかく、あの世とこの世を、同じもののようにしてこう、通っておられるというところが素晴らしいと思うんですね。

 昨日、学院に行っとります末永さんから、手紙がまいってみますと一節に、こういうことが書いてあった。「学院長の講義が、(  ? )、金光大神を頂いて、きましたが、今回で、立教神伝のところまで進みました。私が一生懸命にになられる、のは、この教祖伝と、教典の授業が、そうであります。あのことが、このことが、と親先生の、通っていかれた道に触れていくのが、楽しみであり、喜びであります。」と中に書いてある。最後に、「あー、親先生は、ご自分の全財産を、投げ出して、桜井先生に、道開きを、道開きに、道開きの為に、下さったのに、と、はじめ、本当の、初めて、本当のご神意が、気付かれるしだいで、ただ、相済まないばかりです。人間とはどうして、こうも悲しいものでしょうか。」と。これ以上、涙が出て、字は書かれないと書いて・・・。人間とはどうしてこのように悲しいものだろうかと。

 (?)桜井先生が、せっかく、先生にはあの、椛目の修行を一時終わられてから、まあ、布教のような、まあ言うなら、椛目出社に、ちょっと、道開きをされたときに、御神米に、お書附をしてくださった。そのことが、「死んだ気で、励め勤めよ、徳もつく、道も開ける、人も助かる」というのであったと。そのことを、回想しながら、書いてるわけなんですね。そして金光大神の、今現在あの金光大神というあの、厚い、お書物の、その半ばまで、進んでおる。丁度、教祖が立教神伝を受けられる、そこのところに、学院長の、解説があった、そこまでをずっと、読ませていただくとです、親先生が辿られた、その道と、ピッタリ、同じだということです。ただ、そのことが、私にとっては、嬉しいことであり、有難いことだと。私の師匠が、やっぱりそうであるということが、嬉しいということがです、まあいろいろ、まあ、面々とその書いてございます。

 人間というものはどうしてこのように悲しいものであろうかと。それは私あの、悲しいということは、どういうことかというとですね、教祖の神様が、天地の親神様から、御自分の一生のことを、書きとめておけと、と、いわゆる、この、まあ教祖の神様の自叙伝なんですね。それを、細々と、書きつづれられておいでられた。そして、だんだん、おかげを頂かれて助かられるようになられる。天地の親神様から、ご依頼を受けられてあの、それの、丁度、立教神伝、神様からのお頼みを受けられる、その、そういったようなことを、お書きになっていかれるうちにです、もう、どうしてこのようなことが出来たであろうかと、その感涙にむせんでおられる。嬉しいやら悲しいやら、と言うような、言葉をもって表現しておられますが、そういう意味だと思うんですね。嬉しいやら悲しいやらと。その中には同時に、人間は生身を持っておることでございますから、いつかは、死ぬるということに直面しなければならない。その死ぬるということもです、実を言うたらあの世に誕生するようなものであって、丁度、あの、目が覚めたり、眠ったりするようなものであるとも、教えておられるのです。

 そういうようなその、こもごものもの、ね、その、有難い。嬉しいやらかなしいやらと言う、そのお言葉に、表現されておられる。まあやや、それとは違いましょうけれども、人間はどうしてこのように悲しいのであろうかと言うような、それに、もうこれは、 悲しいということは、嬉しいの表現だと思うんですね。ご神意を思うと、思えば思うほど、それが切のう、苦しいほどに、悲しゅうなってくるんです。

 私は昨日、こんど、親先生学院、私の学院行きのことについて、手続きを取りにならなけりゃならんのに、診断書がいるんですね。そいで私の、主治医、今年の、一年間ずっと診てくださった、病院の先生の、一年間の経過と、現在の状態というものを、診断書がいるというので、昨日、繁雄さんと、高橋さんと一緒に、(  ? )してくれましてから、石井先生のところへまいりました。あちらででまあ、いろいろ、再検査を受けさせていただいたんですけれど、やっぱり、去年よりもだいぶん、心電図が進んであったね。糖も(  ?  )、出ております。それから、腎臓の方も、血尿が出ております。それで、去年のは少しオーバーに書いたんですけれども、今年のはもう全然書かんでも、これ先生大丈夫、こう、安静をようすることになっとりますから、(     ?        )、まあ笑い話をしながら、先生どうでも一つね、私が亡くなりますときには、やっぱり先生から、この、脈をとってもらいたい。先生、ほんなこと私がおかげいただきます、勿体ないですけど、承知いたしました、と言うような、話をした後にです、ふっと私は感じたんですね。

 ほんとにその人間っていう者は、やはり生きることだけを考える。それはです、教祖の御教えの中にも、死ぬる用意よりも生きる用意をせよ、とこう仰る。けれども私は、ということはどういうようなことかと言うと、死ぬるということに無関心であってはならない、と私は思うんです。究極のところ、そこんところをですね、いわゆる、先ほど私が申しますように、生きることにも素直なら、死ぬることにも素直に、死ねれる、私というものを、いつもつくっておかなければならない。ために、自分というものをいよいよ、本気で見極めなければならないと。

 いつ、例えば、黒塗りの自動車が前にとまっても、いやそこじゃ乗りません、というようなことであってはならない。いつでも、その車に、乗らせていただけれる、私は、素直さが、培われるところまで、お互いの信心を、もう死ぬるということには、言葉も使うごたなか。もう死ぬることなんか考えたくもない。これでは、私はいけないと思うんですね。

 私最近そのことを非常に感動して、もう自分自分の頭だけで答え出すんですね。あんたはしっかり信心しとかな私が死んだらどうすんの。私が生きとる間はよかばってん、私が死んだあとはどうなるか。そんなことを、なにか、平気でひよろひよろでるんですね。昨日なんかでも、私いろいろの、話から私が死ぬるときの、いわゆる、私の、最後の脈を採ってくださる、そのことまで、先生に頼んでおることに、気がついてですね、はー、私はこれ死ぬる用意をしよるじゃろうかと自分で思うのです。けれども皆さんはけっして、死ぬる用意ではないと。私の心の中に、いつでも、言わば黒塗りの自動車が前にとまっても、素直に乗れる稽古をしておるんだと。まあ私はこう、自分の心に、言い聞かせておったのでございますけれども、。

 そのことを、今朝からまた、ふっとこう、思い出させて・・・。今自分にそのことを、だんだん自分の心の上に、そうした意味での、まあ、安心と言うか、そういう心がだんだん、進んでくるのが、それこそ、教祖の神様の、まあ高度な意味での、嬉しいやら悲しいやら、末永さんが言うております、人間はどうしてこのように悲しいのであろうかと言うような、まあこもごもの、気持ちが御祈念中に起きてまいりましてね、おかげを頂いておりますとは神様からの、いただきますことでね、九死に、一生の、おかげを頂くということ、その一つの生きる、例えば十のものが、九つはもう駄目だと言うても、後に残っておる一つの生きるということに、日々です、ここに、命を懸ける、ここに、信心を懸けていくのが、信心だという意味のことであります。

 例えば、災難を、ほんとにもう危ないところでした。もうほんとに難しいところを、いわゆる、九死に一生のおかげを頂いた。九死に一生。もうほんとに、運がようて助かったと言うようなときに、使う言葉ですけども、その残されておる一つのですね、生きるということ、後九つは死んでおる。その一つの生きておる、というそこにですこの命を懸ける。そこに、例えば、おすがりと、いうことになってくるわけでございましょうがです、先ほどの御理解の中にも、例えば、この真剣を持って打ち込まれるとき、これを、手で受けることも、五体をもって受けることもできんと。そうですよね、刀を抜いて、打ち込んでくるのにですよ、それを、ばっと手で受けることもできなければ、五体で受け止めることも出来ない。そこにです、一心にすがれ、一心に願え、おかげは和賀心にあり、という、おかげは和賀心に、おかげのあるもなきも和賀心と仰る、それとです、天地書付に現れておるところの、一心に頼め、一心にすがれ、一心に願え、おかげは和賀心にありというのと、の違いを、分からなければなりません。

片一方は一心にすがらなければ、おかげは和賀心にあるというだけではない。それが一心にすがらなければ、その和賀心というものは生まれてこない。その、一心にすがるところから、うまれてくるところの和賀心、この心でだけが、でなからなければです、真剣を、いわば、手で受けたり、体で受けたりすることになる。いわゆる、真剣は真剣の受け物がある。真剣を持って、立ち向こうてきてもです、それを、受け止める、というのは、いわば普通の信心じゃ駄目だということ。言うならば、九死に一生のおかげを頂かなければならないと言うほどのです、私は、この、おかげというものを、身に付けていかなければならない。

 自分の心は、神様のことは忘れたことはなかった、その心の中に念じこむと言ったような、まあこれは和賀心かもしれません。でも、その程度の心ではです、その、真剣を受け止めることは出来ない。日ごろ、一心にすがっておると、一心に、おかげは和賀心にありと仰る、その一心に頼んでおるということ、この一心に頼むというところに、何かが感じたり、( ?  )を感じるような、場合にそれは、一心に頼んでおるとは言えない。そういう信心からですね、私は、九死に一生というようなおかげも受けられない。

 死ぬる用意よりも、生きる用意をせよと。と言うようなことは、そういうことでもあるとこう思う。そういう例えばおかげを頂きながらもです、私は、日々、素直に、神様のお心に従順な生き方をさせていただくところにです、死ぬることにも従順な、死ぬることにも素直な、心がおのずと、養われていくのではなかろうかと。その辺のことがです、私は嬉しいような悲しいやら、人間はどうしてこのように悲しいのであろうかという、それが、あの、生別離苦の苦しみと言った意味での、悲しみではなくてです、そういう心が、心の中にだんだん、育っていくということの、喜びであり、その、喜びをですね、もっと深刻に深刻に、感じたときに、それは、一つの悲しみになってくる。いわゆる、涙がでるほど有難い、という、まあそういうことになってくる。

 いつ私の前に、黒塗りの、自動車がとまるようなことになっても、それに、素直に乗れれる、私というものをです、私はつくっていかなければならない。そういうようなことがです、私はお道で言う、お道で言う、私、死生観と、言うのだとこう思うのですよ。死ぬる用意より生きる用意をせよと仰るから、死ぬることなんかもう、考えたくもない。死という字なんかはもう、見てもいやだ、と言うようなわけにはいかん。いわゆる、そこんところがです、有難く見れれる、有難く聞けれる、また、有難く口にも出せれる。私最近そういうおかげ頂いておるような気がする・・・。頂いていきよるように思う。果たして今なら、私の前に、黒い自動車がとまって、私がそれ抵抗なしに、素直に、乗っていけれるかどうか、それは分かりません。けれどもだんだん、それが、自分の心の中に何かこう、すこし、自信めいたものがですね、できていきよるということを、私は有難いと思う。

 宗教とは私そういうような、私は、その安心をですね、私どもの心の中に、いつの間にか、うえつけていただけれる、それが宗教だと、真の宗教だと、言うふうに私感じます。皆さんどうぞ、教祖の神様の辿られた、その道というものがです、やはり、私どもの上にも、やはり、神乍な、そうした道というものが、ついてこなければならん。いわゆる神様のまえに、いかに、従順な生き方をしなければならないかと、言うことを本気で極めていくところにです、私は、そうした、ということにも、素直になれれる、心の安心というものが、出来てくるのだと思うのです。

 今日、こうして健康であるということがです、安心というわけではございません。どんなに健康であってもです、やはり、私どもは、いつ、どのようなことになるやら分からないことを、思いますときにです、言うならば、九つは死んでおるということなんです。けれども、一つのところにすがって今日も、お生かしのおかげを頂いておるというようなです、私は実感が、神の中を分けて通りおるような実感。それを、私どもの、程度の信心で言うと、言うなら、薄氷の上を渡っているような、気持。そこに、一心にすがらなければおられない、一心に頼まなければおられない。一心に頼め、おかげは和賀心にありと、そういう一心が出てくるときにです、いわゆる九死に一生のおかげも頂かれますでしょう、同時に、真剣を持って打ち込まれるときにも、それを、おう、とこう、受け止めれる、おかげも頂けることを、だんだん確信させていただくように感じます。どうぞ。